ゲームプログラマーの嶋田翔太がいつも思うのは子どもたちの笑顔だ。
「どうやったら楽しんでくれるかなって考えながら仕事をしていると、なんだか僕のほうも幸せな気持ちになるんです」
所属する1-UPスタジオで、親会社の任天堂とともに「笑顔」を求め邁進する毎日。
「あるとき電車のなかで僕が手がけたゲームを遊んでいる人を見かけたことがあって、本当に嬉しかったです。僕らの現場に必要なのは、一緒に考えて楽しむ、喜ぶ力です。しっかりと人を育てて、ゆくゆくは任天堂の作品の中核を担うような存在になりたいです。いつかは1-UPスタジオだけで作品をつくりあげられるような実力をつけたいと思っています」

きっかけは“子どもたちの笑顔”

初めてゲームをやったのは小学校低学年の頃です。スーパーファミコンをクリスマスプレゼントかなにかで買ってもらって、マリオのゲームを遊んでいました。面白いなとは思いましたが、当時の僕は外で遊ぶほうが断然好きでした。ハマっていたのは一輪車(笑)。学校でも家でも乗り回していました。もうやんちゃ過ぎる子どもでした。中学生になって一気にゲームの波がやってきました。一日中「ドラゴンクエスト」のことばかり考えていましたし、母親の「いつまでゲームやってんの!」って怒鳴り声が蘇ってきます。
高校生になって勉強に目覚めました。高校ではテスト結果の順位がはり出されていたのですが、僕は競うことで燃えるタイプなのでどんどん成績が伸びていって、常にクラス1位、コース1位を狙って争っていました。一番の得意科目は英語でした。英語は昔からずっと好きで、のちにゲーム業界を目指すようになってそれがすごく役に立ちました。部活は山岳部でした。小学生の頃からおじいちゃんによく山に連れて行ってもらっていたので興味があって、大会にも出場しましたし最後は部長もやりました。高校時代もずっとゲームは遊んでいました。学校では勉強、休日は山、家に帰ってゲームという生活でした。
ゲームの仕事に就きたいと思ったのは高校3年生のときです。通学路に大きな公園があって、あるときベンチですごく楽しげに盛り上がっている声が聞こえました。見ると小学生たちが5、6人集まってニンテンドーDSで遊んでいました。公園には遊具がたくさんあって僕だったら絶対に滑り台とかに飛びつくだろうに、そういったものには一切目もくれずDSをやっている。しかもみんなすっごい笑顔なんです。そのとき「これだけ子どもたちを笑顔にするDSってすごいな。 ゲームをつくる仕事っていいな。」と急に電流が走ったように思いました。それがゲーム業界を目指すようになったきっかけでした。


「ゼルダの伝説 トライフォース3銃士」
ゼルダの伝説 トライフォース3銃士
© 2015 Nintendo

このままでは通用しない

ゲームの仕事につくとしたらプログラマーだと思いました。家にパソコンがあって簡単なホームページをつくったことがあって、プログラムというのは文字を打ち込んで仕組みをつくるようなものなんだという程度はわかっていました。プログラムというのは新しい言語を学ぶようなものだから、より多くの時間をそれに費やすためには、大学より専門学校に行くべきだと考えました。僕は英語が大好きだったので、そもそも高校も英語だけに時間が費やせる学校に行きたいと思っていたぐらいでした。周りは大学進学を目指していたので親にも先生にも心配されましたが、時間の無駄なくしっかり学べるということで絶対に専門学校だと思いました。それでいろいろ調べていくなかで日本工学院を知りました。
自然に囲まれた環境が気に入り八王子校に決め、クリエイターズカレッジ クリエイティブラボラトリー科(現ゲームクリエイター科4年制)に入学しました。クラスの雰囲気になかなか馴染めず苦労したところもありましたが、授業はとても面白く、すぐ「これで食っていこう」と思えるぐらい手応えがありました。急に思い立ってゲームプログラマーを志望することになりましたが、そこから自分なりに研究して選んだこの道は間違ってなかったと思いました。なかにはなんでもできるすごいクラスメイトもいましたが、高校の頃と同じで「よし、倒してやるぞ!」と闘志が湧いてきました。何度も玉砕されましたが(笑)。
学校ではプログラミングの基礎から作品をつくる楽しさまで、すべてを教わりました。ただ比較的早い段階から、このままでも並の人にはなれるだろうけど、それではゲーム業界で通用しないという危機感を抱いていました。それで学校で用意されたライブラリ(ゲーム制作用キット)を使わないで自分の技術で作品をつくるように努めました。役に立ったのはネットに載っている海外の情報でした。そこでずっと好きで得意だった英語とゲームプログラマーとしての未来が急につながったような気がしました。洋書の技術書も取り寄せ、専門用語が多くて大変でしたが、わからないなりに自分で理解しようと頑張って読みました。難しい講座にも参加したり、とてもストイックに取り組んでいました。公園の子供たちの笑顔が忘れられず、どうしてもゲーム業界に行きたいと必死でした。


「スーパーマリオ オデッセイ」
スーパーマリオ オデッセイ
© 2017 Nintendo

笑顔が笑顔をうみだす

就職活動を始めたのは3年生の秋でした。血の流れるものや戦争もののゲームを制作しているところは避け10社ぐらい受験しました。4年生の春に本命のひとつだった現在所属している1-UPスタジオ(当時ブラウニー・ブラウン)に内定をいただきました。手がけている作品はもちろんでしたが、ホームページのスタッフのみなさんの笑顔が印象的でした。「自分が楽しくなければ楽しいゲームはできない」―これは僕がゲーム業界を目指してからずっと心に思い続けていることです。ようやく夢の第一歩が踏み出せる、ワクワクすると同時に、自分なりに必死で頑張ってきたこれまでが報われた気がしてホッとしました。
入社当時は自分の強みをちゃんとアピールするためにどうすればいいかを考え、なんでも挑戦させてほしいと社長に直訴しました。そうしないと自分の場所をつくれないまま終わってしまうような気がしました。その結果、入社1年目から新作の制作に関わることができました。作品が発売された時は泣きました。けっこうな感動でした。いまでも新タイトルが発売されるたびに嬉しい。何度経験してもやっぱり嬉しいです。
1-UPスタジオは親会社の任天堂と密に連絡を取りながら作品を制作していきます。仕事を発注されるのではなくて、一緒に考えて楽しいものにしていきましょうというスタイルです。そのときに大切になってくるのがアイデアです。実はゲーム業界に入ってからゲームを遊ぶ時間が少なくなってきました。ゲームを遊べばゲームのスキルは蓄積されますが、外の世界を知らないとアイデアは湧いてこない気がします。ゲームのことはいくらでも語れるのに、外の世界に無関心な人は学生時代にもよくいました。だけどゲームをつくる側に立つのなら、「あのとき面白かったよね」「あの映画すごく感動したよね」とか、そういうことが大事になってくると思います。自分が経験していないとアイデアも出せないですが、人のアイデアに共感することも意見を言うこともできません。いま僕は趣味のカメラを持って旅行したり、大好きなディズニーランドに行ったり、ゲームをつくるために実生活での感動や体験を通してもっと心を豊かにしていきたいと思っています。いまの会社のメンバーもみんな同じ考えです。素晴らしい環境だと思います。遊んでくれる人がどれだけ楽しんでくれるか、それが一番大切だし、僕はそれを考えているだけで楽しい。ゲーム制作に関わっているみんなが一丸となって「どれだけ人を幸せにできるかを考えよう」というのが僕らの仕事だと思っています。

クリエイター紹介

嶋田 翔太(しまだ・しょうた)氏
ゲームプログラマー1988年福井県生まれ。
2007年日本工学院八王子専門学校 クリエイターズカレッジ クリエイティブラボラトリー科(現ゲームクリエイター科4年制)に入学。卒業後、2011年株式会社ブラウニー・ブラウン(現1-UPスタジオ株式会社)に入社。主な参加作品に、「ゼルダの伝説 トライフォース3銃士」(任天堂/2015)、「スーパーマリオ オデッセイ」(任天堂/2017)ほか。
金子 修(かねこ・おさむ)氏