――監督・三池崇史——— その名前を見ただけで、どれだけ心躍らされてきただろう。クリエイターであれば一度は会ってみたいと願うその人は、世界中に熱狂的なファンを持ち、業界一多忙な監督として知られ、次々と新作を放ち続けてきた。撮影現場に入った二十歳の頃は、スタッフの多くは映画会社の社員だった。だがどこにも属さず、属せず、いわゆる町場(まちば)、映画業界の底辺からフリーの助監督として出発した。巨匠の現場で悟った自身の信念に従い、子供のように楽しんで、撮りたいように撮ってきた三池が、「まさに、現実がフィクションを超えた」と絶賛するルポルタージュを原案に手がけた、最新作「でっちあげ ~殺人教師と呼ばれた男」。夢中で描いたのは、愛してやまない、人間の不可解さだった。――

柴咲コウさんの演じた律子が、僕にはとにかく魅力的でした

真実がねじ曲げられ殺人教師にでっちあげられた人がいる ——— 映画の着想を得た福田ますみさんが書かれたルポルタージュを読んで、「こんなことが本当にあったのか」って思いました。面白いなと感じたのは、メディアのありようをやや批判的に書かれているところもありますし、確かに発端は週刊誌の記事だったかもしれないけれど、それを読んだ読者やテレビの視聴者といった大衆、そして教師が勤めていた学校の校長や教頭、父兄、教育委員会であったり、児童を診察した大学の精神科の教授も、実際はそういったものが一緒になってでっちあげをつくりあげていった。責められるべきは〝だれかひとり″や〝何か″だけではないってところです。だれだって被害者になる可能性もあるし、知らないうちに加害者になってしまっているかもしれない、だけど人間ってそんなものですよねっていう。ただそれにしてもちょっと異常すぎますよね。だから、原作のままでは映画にならないだろうなと思いました。あまりに現実味のない事実ですから。

それとやっぱり、柴咲コウさんの演じた律子が、僕にはとにかく魅力的でした。原作では、律子のモデルとなった女性がなぜああいう人間になったのかということには触れていない。踏み込まないというか、踏み込めない。そこもすごくいいと思いました。普通にルポルタージュとして完成度を上げようとすると、それこそ、でっちあげちゃうはずなんですよね。それって読者の興味を大きく引くテーマだともいえますから。でも福田さんはそういうことを一切しない。謎解きをするわけではなくて、「こういう人いるよね、いたんだって」という事実だけを粛々と書いている。で、それはなぜかっていうと、裁判を前に取材を始め、1、2年調べ上げたところで真実には至らないわけですよ。なぜ殺人教師にでっちあげられた教師がこんなに弱気なんだろうってことも思いますよね。福田さんはそういったこともある程度把握していたかもしれないし、もしかしたら確信していたのかもしれないけれど、書かない。つまり書かないというのが、さらにでっちあげを生んでしまうことを避ける唯一の方法だったんだと思います。ただ映画では、律子がああいう人間になったのはコンプレックスが根っこにあるのかなという匂いだけはつけました。

綾野剛くんも柴咲さんも、撮っていて一番面白い時期だなって思いました

キャスティングについては、殺人教師にでっちあげられる主役の教師・薮下役は綾野剛くんで行こうというところから始まり、その後、柴咲さんの参加が決まりました。ふたりとも一緒にやるのは久しぶりでしたが、それぞれ適役だなと思いました。薮下が家庭訪問で律子の家を訪れるシーンの撮影は、律子の目線と薮下の目線の2パターンを撮ったんですが、楽しかったですよ。だって、そうとうおかしいでしょう、ふたりとも(笑)。上手いなって感心しましたし、意外と足したり引いたりがすぐできる、レスポンスのいい俳優たちなので。でも根っこの部分、もともとは不器用なところがある表現者だと思うから、そんなふたりがいろんなキャリアを積んでいくなかで柔軟性が出てきてっていう、撮っていて一番面白い時期だなって感じました。

律子にはもともとどこか攻撃的なところがあって、ターゲットを見定めて執拗(しつよう)に追い詰める。それは我が子から聞いた担任の薮下から受けた仕打ちを信じたからかもしれない。ただ、きっかけは子供の一言だったのかもしれないけれど、律子の場合はそんなに単純じゃないと思うんですよね、先ほども言った通り、映画ではその一部分を少しだけ匂わせましたが、そこは別に描かなくてもいい。逆に描かないからこそ、観た人それぞれが、それぞれの律子を感じることができるというか、それぞれが答えのようなものを見つけ出せるっていう。そこはやっぱり女優さんの仕事、力ですよね。柴咲さんがすごいと感じたのは、彼女は「これはお芝居なんだよ」という、逆に芝居をしたんだと思うんです。普段よりもキャラクターをつくって目力もギュッと強くして、要は安心感を与える。これ芝居ですから、明らかにって。で、安心感を与えつつ、でも本当かもしれませんねっていう恐さを出すっていう、そういう手法を彼女は取ったんだと思います。

観終わったあとに何か引っかかるものが必要だと思った

映画のラストについては、10年かかって、ようやく薮下が教育委員会から受けた懲戒処分が取り消され、ある意味、完全に冤罪が晴らされたわけで、まぁハッピーエンドではあるんですけど、そんなことでは終われないなと思いました。これほどの経験をして、それが間違いでしたって修正された末に薮下が感じたものは、喜びや安堵(あんど)とともに、孤独だったと思います。ケイタイでやり取りはしているようだけど、そばに息子がいるかどうか、奥さんに至ってはこの世にいるのかどうかもわからない感じだし、一緒に歩いていたはずの人たちが気づくと周りにだれもいない。流れてしまった時間(とき)とともに、言いようのない孤独を感じているんじゃないかなと。弁護士が主役の物語であれば、すべて勝ち取ったということで、報酬も達成感も得て感謝もされて、めでたしめでたしってなるんでしょうけど、被告や渦中にいた人間たちは、自業自得だと言う人もいるかもしれませんが、それぞれがそれぞれの傷を負い、多くのものを失い、そしてそれは決して取り戻すことのできないというのが現実で、映画のラストはやっぱりそうあるべきだと思いました。

それと、実はいま、薮下がさいなまれているそれとは違うけど、気づいていないだけで、多くの人が孤独のなかにいるんだと思う。SNSといったコミュニケーションツールで、だれかとつながっていると感じているかもしれないけど、実は全然つながってなくて、むしろそのSNSに牙を向かれることもある。映画のストーリーから感じる直接的な恐さだけではなくて、観終わったあとに何か引っかかるものっていうのが必要で、自分が信じているものって本当に存在するんだろうかっていうことも、この映画の表現すべきことなのかなと思いました。

フリーの助監督として十数年、監督・今村昌平から学んだもの

テレビ、Vシネマ、映画と数々の現場、監督に助監督で就きましたが、それぞれ素晴らしい監督もいましたけど、今村昌平監督はとにかく異質でした。本当に人生のすべてが映画、人生そのものが映画で、でも青臭くない。非常に頭のいい人で、リアリストで、自分の企画で、製作費も自分で集めて、自分の会社・今村プロでつくる。10年かけて1本のホン(脚本)を完成させて、で、寸分違わず俳優たちがそれを再現していく。しかも、あんまりコンテやカット割りとかそういったことに興味がなくて、行っちゃえるならワンカットで、それですべて表現できるっていう。とんでもないリスクを負って映画をつくっているってことで、そういう生き方が作風をつくっているんだなと思いました。

だから、お芝居の質とか画(え)のトーンとかカット割りとか、そういう表面だけをどれだけ真似ても、出来上がってくるものはフェイク、今村昌平みたいな映画をつくりたいと思っている、今村昌平の力をまったく持ってない人間が真似をした偽物がそこに転がっているだけなんですよ。「それじゃあ、もったいないな」って、監督を志していたわけでもない自分にそこまで感じさせるほど、今村昌平はすごかったってことです。今村昌平から学んだのは、だれを真似するとかじゃなくて、自分のやりたいように、やりたいものを自分のやり方でつくるってことです。もうそれしかないんだと思いました。でも逆に言うと、僕らみたいなVシネマをいっぱいつくってきたような人間の作品は今村昌平にはつくれないわけですよね。いろんな人の影響を受けてリスペクトしたものに近づこうとかなんとかっていうのは、今村昌平という監督と出会ってまったくなくなりました。そこは一番感謝していることです。

現場のスタッフに何を求めるか。例えば今村昌平が僕らに唯一要求したのは、いい兵隊であれってことです。右向けって言ったら右向いてくれ、それだけでいい。意見なんかを現場に持ち込まないでくれっていう。自分が10年ずっと考えてきて脚本にしたその一言に、君の意見なんかはまったく必要ない。で、もし言うんだったら100個言え。100個言ったら、どんなバカの言うことでも1個ぐらい参考になる、俺の役に立つことがあるかもしれない。だから何か言うんだったら100個言えっていう。それは、本当にそうだなって思いました。ただ、もちろん時代が違うってことはあるけど、自分の現場には、「将来こいつ、いい監督になるかもしんないな」「すごい画(え)を撮るカメラマンになるかもな」っていう人が、本当はやっぱりいてほしいですよね。そいつに何かを教えたりっていう余裕はまったくないわけですけど。兵隊として役に立つ人間が、助監督の仕事を器用に上手くこなせるかどうかはまた別問題だし、いい助監督がいい監督になれるわけでもない。才能の采配をするのは監督の仕事じゃなくて、プロデューサーの仕事だと僕は思っています。僕らみたいな映画のプロがスタッフとして入れば、例えば北野武さんの初監督作品「その男、凶暴につき」(89)もそうだし、アニメーション監督の庵野秀明さんが実写を撮っても、だれが監督でも対応できる。だから、業界やキャリアなんかに捉われず、面白い感性の人に監督をやってもらいたいし、逆にプロの映画スタッフじゃなくてボランティア的なスタッフを使ってつくっている監督もいる。映画っていろいろなつくり方があるんだってことがもう少し見えるといいのかもしれないなと思っています。

「いたんですよね、こういう人」ってだけでいい

お金を払って約2時間付き合ってもらうわけですから、単純に面白かったでも、違和感、疑問や嫌悪感でも、何か刺さった、感情が動かされたということでは楽しんでもらえたってことだから、そういう意味では本作もエンターテインメントとして観てもらえればいいなと思っています。ただエンターテインメントっていうのは、映画であれ音楽であれなんであれ、人間のグロテスクな部分から生まれてくるもので、エンターテイメントの原動力はそこだと思うんですよ。そういった意味では、ルポルタージュに出てくる人物たちは、もう最高のエンターテイナーだらけ、僕にとっては、人間っぽい本当にユニークな人たちばかりでした。しかも多くの人がそうだと思うんですが、映画の律子さんに対して特殊な感情っていうか、魅力を感じてしまう。なんなんだこの人は?って、もう気になってしようがない。要は、会ってみたいよねっていう、それってなんだろうって。なぜあんな正体不明の律子さんに興味を持ってしまって、会って話してみたいなんて思うんだろう。しかも旦那(だんな)もわけわかんないという(笑)。なんか共鳴してるのかもしれないし、会って直接どうしてこんなことしたんだって理由を聞いて理解しないと恐すぎるってことなのかもしれない。でもなんかただそれだけじゃないように感じるんですよね。

映画化するにあたって、原作で抱いた「この人なんだろう?」ってことを取材して、映画なりの律子さんに迫ることに意義を感じる監督もいるかもしれないけど、僕には、そのわからないところがとても素敵で(笑)。これは原作に通じるところでもあるんですが、この人の場合はこうでしたなんてことを別に暴く必要はなくて、「いたんですよね、こういう人」ってだけでいい。僕らが普段つくっているフィクションって、まったく特殊なことを描いているわけではないんです。リアルに存在する人間の範疇(はんちゅう)を逸脱してないというか、ともすれば、多くの観客の共感を得られやすいように、ステレオタイプにはまってしまうんですよね。わかりやすいキャラクターじゃないと伝わらないよねって思ってずっとつくってきて、観客側もそういうことに慣れちゃって、お約束みたいなものができあがっちゃって、映画ってもう限界ですよね、終わっちゃってますよねって感じることもある。だから、「現実のほうが意味不明で不思議な人が存在するんだ」って、原作を読んだときもそうでしたし、この映画をつくり終えたいまも、変な話ですが、僕には律子さんが希望の星に見えました。観客のみなさんもたぶん思うはずですよ、「面白い、会ってみたい!」って(笑)。そうとうの覚悟がいると思いますけどね。

三池崇史(みいけ・たかし):1960年大阪府生まれ。高校卒業後、横浜放送映画専門学院(現・日本映画大学)に進み、フリーの助監督として、テレビ、ビデオ、今村昌平監督「女衒 ZEGEN」(87)、「黒い雨」(89)をはじめとする映画など、数々の現場に参加する。1991年ビデオ作品で監督デビュー、95年には映画「新宿黒社会 チャイナ・マフィア戦争」で劇場映画監督デビューし、以降Vシネマ、劇場映画問わず数多くの作品を手がける。Vシネマ「極道恐怖大劇場 牛頭 GOZU」(03)がカンヌ国際映画祭監督週間に正式出品され、さらに、映画「スキヤキ・ウエスタン ジャンゴ」(07)、「十三人の刺客」(10)でヴェネチア国際映画祭、「一命」(11)、「藁の楯」(13)でカンヌ国際映画祭とそれぞれコンペティション部門に選出されるなど、海外でも高い評価を受けている。米国アカデミー会員。CAA(クリエイティブ・アーティスツ・エージェンシー)所属。主な作品に、映画「オーディション」(00)、「ゼブラーマン」シリーズ(03・10)、「着信アリ」(04)、「クローズZERO」シリーズ(07・09)、「ヤッターマン」(09)、「悪の教典」(12)、「土竜の唄」シリーズ(14・16・21)、「初恋」(20)、「怪物の木こり」(23)など多数。
映画「でっちあげ ~殺人教師と呼ばれた男」


2003年、小学校教諭・薮下誠一(綾野剛)は、保護者・氷室律子(柴咲コウ)に児童・氷室拓翔への体罰で告発された。週刊誌記者・鳴海三千彦(亀梨和也)の実名報道、過激な言葉で飾られた記事は世の中を震撼させ、薮下はマスコミの標的となった。次から次へと底なしの絶望が薮下をすり潰していく。一方、律子を擁護する声は多く、550人もの大弁護団が結成され、前代未聞の民事訴訟へと発展。だれもが律子側の勝利を切望し確信していたが、法廷で薮下は「すべて事実無根の“でっちあげ”」と完全否認する。

出演:綾野剛、柴咲コウ / 亀梨和也 / 大倉孝二、小澤征悦、髙嶋政宏、迫田孝也、安藤玉恵、美村里江、峯村リエ、東野絢香、飯田基祐、三浦綺羅、木村文乃、光石研、北村一輝 / 小林薫
監督:三池崇史
原作:福田ますみ『でっちあげ 福岡「殺人教師」事件の真相』(新潮文庫刊)
脚本:森ハヤシ、音楽:遠藤浩二
主題歌:キタニタツヤ「なくしもの」(Sony Music Labels Inc.)
企画・プロデュース:和佐野健一、プロデューサー:橋本恵一、坂美佐子、前田茂司、撮影:山本英夫(J.S.C.)、照明:小野晃、録音:中村淳、美術:坂本朗、編集:相良直一郎、キャラクタースーパーバイザー:前田勇弥、音響効果:中村佳央、制作プロデューサー:奥野邦洋、土川はな、今井朝幸、司法監修:丸住憲司、司法・裁判監修:坂仁根、キャスティングプロデューサー:高橋雄三、音楽プロデューサー:津島玄一、宣伝プロデューサー:三橋剛、助監督:倉橋龍介、制作担当:塩谷文都、俳優担当:平出千尋
企画協力:新潮社、制作プロダクション:東映東京撮影所、OLM、制作協力:楽映舎、製作幹事・配給:東映
Ⓒ2007 福田ますみ/新潮社 Ⓒ2025「でっちあげ」製作委員会
絶賛上映中

インタビュー・テキスト:永瀬由佳