映像作家、写真家、演出家であり、DRAWING AND MANUAL代表取締役社長の菱川勢一さん。音楽業界からキャリアをスタートし、NYで映像ディレクターとして活躍した後、日本でモーショングラフィックスのムーブメントを起こした立役者です。

代表作品のひとつである『森の木琴』ではカンヌライオンズ三冠を受賞し、もちろん他にも数多くの賞と記憶に残る作品を作り続ける菱川さんに、これまでのキャリアのお話から仕事や会社に対する思いを伺いました。

菱川 勢一(ひしかわ・せいいち)
映像作家 / 写真家 / 演出家
武蔵野美術大学教授1969年東京生まれ。渡米を経て1997年DRAWING AND MANUALの設立に参加。短編映画、写真、TVCM、TVドラマや番組のアートディレクションを手がけている。
主な仕事に『功名が辻』『八重の桜』などの大河ドラマのタイトルバックの監督、『モーショングラフィックス展(六本木AXIS)』『動きのカガク展(21_21 DESIGN SIGHT)』『ヴェネツィア・ビエンナーレ建築展』などの展覧会の監修がある。
監督をつとめたTVCM『森の木琴』がカンヌライオンズをはじめとした20を超える国際的な賞を受賞した。またアーティストとして写真や映像を駆使したコンテンポラリーアート作品『雪見春画』をミラノ、ニューヨークで発表。著書に写真短編集『存在しない映画、存在した光景』など。受賞歴はニューヨークADC、ロンドン国際広告賞、iFデザイン賞、One Show Interactive、カンヌライオンズ、グループ受賞としてヴェネツィア・ビエンナーレ特別賞ほか

レコード会社の総務部をスタートにクリエイターへ!?

僕の父は鉄工所で働いていたので、幼い頃から鉄が削り出されていく様子や数値のメーターをじーっと見るのが大好きでした。

そして、休日に父が連れて行ってくれるのは近所だった羽田空港。当時はコックピットを見学できたんですね。そこでたくさんの計器類を全部把握して操作するパイロットの姿に憧れて、将来の夢は「パイロット」でした。

高校生になってバンドを始めて楽器を練習していても、その考え方は残っていましたね。レコーディングスタジオのミキサー卓にはものすごい量のツマミが並んでいて、幼い頃に見たコックピットのようだったので、楽器よりミキサーを操作するほうが大好きでした(笑)。

エンジニアの人がパイロットと同じように、位置などを全部把握して音質や音量を調整しているのがカッコよくて、パイロットからレコーディングエンジニアへ目標を変更しました。そして、コンサートスタッフのアルバイトをしながら、音楽業界を目指すことにしたんです。

尾崎豊さんや浜田省吾さんなどソニーに所属しているミュージシャンのライブを手伝うことが多く、その関係も多少あって高校卒業と同時にアルバイトのままソニー・ミュージック・エンタテインメントへ入りました。

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きらびやかな業界のイメージとレコーディングエンジニアの夢を抱えながらも、配属されたのは総務部。

想像に反して地道な作業ばかりだったのですが、総務部は会社の土台となるような業務が多くて、ほぼ全ての部署と関わりました。新譜がリリースされる度に著作権のことで法務部と関わったり、経理部や営業部、人事部、株主総会まで関わることもありましたね。当時社会をよくわかっていなかった僕にとっては、すごく良い経験になりました。

今となっては最初に総務をやって本当によかったなと思うし、会社を経営するようになってからすごく役立ってるんです。社員からは半分嫌味で「細かいですね、さすが元総務」って言われることもあるけど(笑)。

ミュージックビデオに感化されてNYへ

総務を2年くらいやった頃、引き抜かれる形でプロデュース部へ異動に。ライブイベントやテレビ局とのタイアップを企画するのが主な業務でした。

それから暫くして今度は出向でソニー本体の広告宣伝部で働くようになり、製品プロモーションを担当。でも、これもレコーディングエンジニアになりたかった僕の本当にやりたい仕事ではなかったんですよね。

さらに、その頃は音楽業界もバブルが弾けてその影響を受け始めていたし、洋楽と比べて日本のマーケットは圧倒的に規模が小さいことに愕然としていました。

例えばミュージックビデオひとつとってみても、日本はどれだけ売れてるトップアーティストでも当時1,000万かけてたら相当気合入ってるレベル。でもアメリカは、新人アーティストでも「今回ローバジェットなんだけどね」で3,000万。トップアーティストは億単位が普通だから、とにかく桁が違う。

僕は特に最初からミュージックビデオに感化されて、『ベストヒットUSA』なんかは目を皿のようにして見てたんですね。フィルムからビデオに変わっていく時代の中、エフェクトとかCGもほんのり入ってきて、いろいろなミュージックビデオですごい実験がなされていたと思うんです。だから「今後は映像が来るだろうな」という肌感もあり、MTVにどうにか関わりたいということで、会社を辞めてNYへ渡りました。

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もちろん最初はアシスタントの仕事でも来るもの拒まずありとあらゆるジャンルの現場で経験を積みました。ミュージックビデオ、CM、情報番組、ドキュメンタリー……あるときは人手が足りないからと言われてロバート・デ・ニーロとジェシカ・ラングが出演していた映画『ナイト・アンド・ザ・シティ』の照明助手をやったこともありました。

そんな日々が3年目くらいになったとき、段々とディレクターとして僕ご指名の仕事が来るようになったんです。

そして指名が増えてくるのと同時に、現場での僕のあだ名が「プロフェッサー」になっていました。何故かと言うと、ほぼ全ての機材のいじり方を知ってたから(笑)。

やっぱり元々エンジニアを目指してたり職人気質なところがあったので、英語の勉強も兼ねて、スタジオにあるカメラとか編集機の機材の説明書を読破していたんです。だから機材トラブルが起きても「5分ちょうだい」と言って、すぐに直しちゃってた。

そうすると僕の噂が広まって、何か調子が悪いときに呼び出され、機材を見て「ここをつなぎ直すだけでいけると思うよ」とかって言うと「すごい!本当だ!」みたいになって(笑)。

でもそれもソニー時代と同じく不本意で、僕は演出とかディレクションがやりたかったんです。なのに、そこにあるものを全て把握してないと気が済まない性格だったのが影響したんですね(笑)。

帰国後すぐ“モーショングラフィックス”の立役者に

そして、26~27歳くらいの間に帰国し“今こそ演出家に転向するチャンスだ!”と思ったので「僕は演出家です」と主張して、やっとディレクター業務を始めました。

もちろんアメリカ滞在中の後半はディレクターをやらせてもらえてましたし、いわゆる監督業をメインに据えたんですね。

ミュージックビデオやCM、アートやファッション系の仕事も増え、当時イッセイミヤケにいた吉岡徳仁さんから「青山店の店頭のディスプレイの映像を作ってくれないか」と依頼されて作ったらすごく反響があって。AXISに掲載されたりもして、あれよあれよと言う間にファッション・アート・デザイン業界の人たちと繋がったんです。

そのうちの一人がナガオカケンメイ(DRAWING AND MANUAL共同設立者)で、一緒にやろうよと誘われて。帰国してからはフリーランスだったんですが、1997年にナガオカと一緒にDRAWING AND MANUALを設立しました。僕が映像でナガオカがグラフィック出身だったので、初めはモーショングラフィックスを柱として始めて。

当時は“モーショングラフィックス”なんて言葉もなくて「アニメーション」と言ってたくらいの頃に、僕らはモーショングラフィックス展っていう展覧会も始めました。groovisionsとか田中秀幸さん、谷田一郎さん、カイル・クーパーとかを集めて、六本木のAXISが会場で、5万人動員したんです。

僕はソニー時代に散々イベントを企画してきたので「5万人なんて全然大したことないじゃん、東京ドーム1回分にもなりゃしねえ」って思ってたんですけど(笑)、ナガオカは「スゴイ!」って狂喜乱舞していて。

でも今考えると相当すごいんですよね。確かに連日立ち見でしたし、映像展で毎日埋めるって確かにすごい。

ちょうど当時スティーブ・ジョブズ氏がAppleに返り咲いた直後だったのと、Final Cutをはじめとした映像系に注力し始めた頃だったっていうのもあって、展覧会の協賛第一号はAppleがついてくれて。そうしたらこれから映像系に力を入れようとしてる企業さんが続々と協賛してくれるようになった。

それまでは僕らが企画書を持っていって「10万でいいからください」ってお願いしても門前払いだったのに、急に潤沢になって、吉岡徳仁さんに思いっきり空間を創ってもらって、DVDも出して、バーンとモーショングラフィックスブームが来たんです。

「モーショングラフィックスって今さら言ってもアニメーションじゃん」って物議になったりもしたけど、画期的なことをやってるという確信はありました。モーショングラフィックスの定義は、元々グラフィックだったものを動かすことによって価値があることにする新しい考え方なんだと。

アニメーションっていうのは、実写でできなかったことをアニメ化することによって実現していくもので、できあがったものは何となく似通ってるかもしれないけど想像の入口が違うし、割とアカデミックな話なんですよね。

美大やクリエイティブのスクールがこぞってモーショングラフィックスをひとつの題材にし始めたこともあるし、未だにモーショングラフィックスってものがクリエイティブの単語として残っているとしたら、おもしろいムーブメントの先端にいたなと思います。

クリエイターとして守ってきた“イニシアチブ”

昨年は会社を設立して20年目を迎え、最初4~5人で始まったのがDRAWING AND MANUALだけで見ても20人に増えました。もっと言えばナガオカがやっているD&DEPARTMENTを合わせたら従業員は200人を超えます。

そんな中、設立当初から大事にしてることがいくつかあって、まずは「仕事の受発注に上下関係を作らないこと」。

新規でお仕事の依頼を頂いて「打ち合わせをお願いします」と言われても僕らは「わかりました、お待ちしてます」って、こちらからは出向かないんです。

あくまでも“依頼されてる側なんだ”という姿勢を必死で貫きました。

生意気に威張ってるわけじゃないんです。つまり、僕らがお店だとしたら、お客様が品物を買いに来ようとしてるときにお店がお客さんの元を訪ねないですよね。

車のディーラーと同じで、僕らは今、自分達の自慢の車を並べて「どうぞお待ちしています」と言ってるんですよと。一方でこの姿勢を貫いているのは、もちろん答えを出せるクオリティーや実力がないといけないという自分たちへの戒めでもありました。

それで「生意気な奴らだ」とか「融通の利かない連中だ」と思われて嫌われたとしても、それは遠からず長い付き合いになるとは思えない相手なので。自分達を理解してくれる人たちを大事にしたほうがいいよねってスタンスでやってきました。

この姿勢で仕事をやり続けて20年。今まで生き残れているってことはある意味正解だったのかな、と思っています。

“本当のクリエイティブ”だけにお金をかける

そして、利益を生まないことには一切お金をかけないこと。目の前に1,000万があったとして、会社の内装をキレイにするとか、ロビーをリニューアルするとか利益にならないことは絶対やらない。

代わりに、社員の1人がお店をやりたいと言ったらそれは新規事業だからやる。社員の1人が映画を作りたいと言ったらやるし、4Kのカメラが欲しいと言ったら買う。うちのメインは映像制作だから、良い映像の為だったら糸目をつけない。「それにお金をかけることで良い映像になるんだっけ」と問うて、見栄をはるためにお金は使わないというのはポリシーです。

“職人クリエイター”が行きついた仕事・会社の在り方とは…?

あとは、「社員は家族だ」ということ。

例えば、毎年忘年会は2年に1度。社員とその家族もディズニーリゾートに呼んで1泊します。ちなみにシングルでも彼女はOK。段々細かくなってきて「付き合って1ヶ月しか経ってない彼女はどうなりますか?」「ちょっとそれは審議だな」とか言って(笑)。

毎日一緒に働く仲間だから、情もあるし急にドライなことは言えない。体調不良で休んだら心配するし、社員に関しては鬱陶しいくらいに責任を持ちたいんです。仮にロケ先で転んで崖から落ちて重傷になったとしたら、会社として一生面倒見る。それが社員だと思っています。

ただ単に実力のある人が集まって手続きや制度で繋がってるのが会社だとしたら、それは僕に言わせると会社とは呼ばずに組合ですね。

僕の中の会社ってもうちょっと家族っぽくて、同じ屋根の下で長い時間一緒に仕事するわけだから、長い時間一緒にやるメリットがないと、ね。

つまり、“仕事とは人である”ということを実践していきたいんです。

今まで職人的なことをずっとやってきて、機械をたくさんいじってきて、行き着いたのが「人」。集まった仲間で左右される仕事内容なので、会社が売れてるってことはすごくメンツに恵まれてるってことでもある。幸せですね。

「人」とのつながりと『森の木琴』

これからも今までのスタンスで会社を守り続けたいというのと、一人のクリエイターとしては常に身の丈に合ったことをやろうと心がけています。自分がどうしても興味が持てないものは、無理やりやったとしてもその作品を「僕の演出です」なんて胸は張れないから。

例えばCMに関してはNTTdocomoさんの『森の木琴』が“CM”っていうものの僕の中でひとつの句読点が打たれた感じなんです。

『森の木琴』は、クリエイティブ・ディレクターの原野守弘さんに声をかけてもらって始まりました。“みんなで一生懸命気合を入れてひとつのイベントを成し遂げるドキュメンタリー”じゃなくて、“クラフツマンシップとして日本の一ドキュメンタリー”を撮ることができました。

『森の木琴』は良くも悪くもコマーシャルを忘れているんです。すごく静謐に撮って、美しさみたいなことは絶対外さない。且つ、森林伐採や間伐材というトピックスをバックグラウンドに忍ばせています。共通認識が取れていた素晴らしいスタッフィングも含め、今でも印象深い仕事のひとつになりました。

知る人ぞ知るエピソードとしては、あの撮影は2011年の2月24日で、同日に『祝!九州 九州新幹線全線開業』のCMも撮影していたんですね。しかもそのスタッフ同士がその日の夜博多で一緒に打ち上げもしています。さらに、『森の木琴』も『九州新幹線』も、その年カンヌライオンズへ行って賞を獲りまくったんですね。

それが皮肉にも震災を経て、“元気が出るCM”ということで『森の木琴』と『九州新幹線』が話題になって。みんなで「2月24日って奇跡の日だね」と言いながら、こんな神がかったことがあるんだなと思いました。

“物語をつくれる人間”になることがクリエイターへの第一歩

未来のクリエイティブを見据えたとき、AIを筆頭に次世代テクノロジーの波は避けて通れないと思っています。

そこで、数年前からDRAWING AND MANUALは“ストーリーテリング”に思い切り舵を切りました。

最終的に生き残るのはそこなんじゃないかと思ったんです。物語を生み出してストーリーテリングすることで人を気持ちよくさせたり楽しませたりすることは、絶対自動化できませんから。

お芝居や演技や演出、物語の創作に関して、近しいものまではAIが生み出せるかもしれないけど、味覚や香りのように若干釈然としない何かが残って価値に落ち着いていかないと思っています。

そして今現在50歳手前に差し掛かって、いよいよこれからはより“人生”とか“家族”をテーマに演出できるなと感じています。

だから会社の中では一番渋めの演出担当で、スポーツ用品とかコスメとかは若手に譲るし、大河ドラマなどは率先して担当する。結果的にはそれが“DRAWING AND MANUAL”というチームの層の厚さになっていると思います。

つまり、今までもこれからも“物語をつくれる人間”は本当のクリエイターだと思っています。フィクションでもいいですし、自分にあった実際の話を人におもしろく伝えるのでもいい。それは映像だけじゃなく小説、アニメや漫画もいいし、表現の手法はたくさんあります。

そしてさらに、自分が楽しむのと同時に他人を楽しませられるクリエイターが生き残るのではないでしょうか。

若い世代の人達には特に、あんまり世の中の情報に惑わされずに楽しいものを素直に作ってほしいです。「これからはプログラミングの時代だ」とかいって特にやりたくもないプログラミングの勉強をする必要は、僕はないと思います。

今年はまだたくさん勉強しなくちゃいけないかもしれないけど、来年になったらワンタッチでできるようになってるかもしれないから。

そこじゃないんです。それよりも、年末年始おばあちゃんの家に行った話をどうやって誰かに“おもしろおかしく話せるか”を考えることのほうが、クリエイティブに通じると思います。

インタビュー・テキスト:上野 真由香/撮影:古林 洋平/編集:CREATIVE VILLAGE編集部